ローマは不思議な街だ…。
訪れた時には、「大都市」としか思わなかったのに、一年ぐらい経過してから、記憶の中で発酵したかのように、ジワジワと存在感を増してくるのだ。
記憶の中で勝手に街が育っているようでもある。
そして、行った時よりも、回想してみると、ローマがどんなに独特な雰囲気を湛えていたかが、深く味わえる。
まるで幻の街が、水面下から、浮かび上がってくるかのようだ。
迷路のような路地・・・。イタリア独特の、優雅で背の高い、でも歳月を閲して、薄汚れたような建築群・・・。
突然現れるローマ時代の遺跡、バラバラになって転がった神殿の柱やコロッセウム、そして天使の石像・・・。
サンタアンジェラ城にかかる石橋の上で、ドロップ缶を置いてひたすら ひれ伏し、施しを待っている乞食・・・。
黒っぽい車やオートバイが数千前の遺跡の脇を通り抜けていくし・・・。
バチカン王国のキューポラの上から見ると、夕日に当たって街は綺麗。どの建物も古びた石で出来ていて、それらが統一された黄金色に輝いている。
けれど、大都市。
所詮、大都市なんだよなあ、と田舎好きの私は思ってしまう。
やはり海や空の作り出す美しさや、壮麗さには敵わないものがある・・・。
古代人も、この都会には憂鬱を感じていたのではないか。
人の多さや、自然の少なさや、人間関係の軋轢だのに・・・。
そんな、古代人のメランコリーに同調するような気分になってしまっていたのだった。
正直、行った当初には、あまり感動しなかったのだった。
しかし、記憶の中で存在感がどんどん大きくなる。
こんな街は珍しい気がする。
そこで、回想しつつアレコレ書いてみようと思う。
日を置いて発酵させてからの旅行記である・・・。
【目次】
- トレビの泉
- コロッセオ(円形闘技場)
- フォロロマーノ
- パンテオン
- カンポデフィオーリ市場
- サンタアンジェラ城(聖天使城)
- サンピエトロ大聖堂
- ローマの治安はどう?
- ローマで行きたい、安くて美味しいレストラン
- イタリアに行ったら絶対、お菓子を食べよう!
- ローマ旅行記まとめ。
トレビの泉
ローマには、こういう泉が沢山あるけれど、一番有名(?)なのがトレビの泉。
コインを一枚投げれば、またローマに来れる、2枚で好きな人とずっと一緒にいられる、という願いがかけられるみたいです。
トレビの泉の由来と感想
ローマにある最も巨大なバロック時代の人工の泉(噴水)である。
ポーリ宮殿(Palazzo Poli)の壁と一体となったデザインで、中央に水を司るネプトゥーヌス(ポセイドーン)が立ち、左に豊饒の女神ケレース(デーメーテール)、右に健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されている。
元々は古代ローマ時代に皇帝アウグストゥスが作らせたもので、ヴィルゴ水道(ヴェルジネ水道、乙女の水道の意)の終端施設としての人工の泉が場所を替えた後、今の位置になった。
泉は教皇クレメンス12世の命によりローマの建築家ニコラ・サルヴィの設計で改造、彼の没後の1762年に完成した。
ウィキペディアにいると、泉の歴史は上の通りです。
ギリシャ神話に出てくる神さま、ネプチューンやデメテルが登場してます。
脇の方には、ライオンが暑くて溶けかかったみたいな、よく分からない生き物がいて、口から水を出していた気がします・・・。
なんですが、さてさてこの泉、思ったよりは小さかったです。
彫刻がわんさか場を埋め尽くしているのは、さすがイタリア。どことなくアラビア的センスも遠く感じさせる・・・などと思いつつ。
しかし、この周りには観光客の人だかりもわんさか広場を埋め尽くしています。
一月末というオフシーズンだったんですが、流石に世界のローマ。
みんな、そこら中でセルフィ―を撮っている汗
私もその一人。(;^_^A
△近づくとこんな感じ。
いかにも観光スポットというのは否めないですね。
あまり落ち着いて見れません・・・。
行くなら、早朝がいいかも・・。
そして、周囲には、インド系(?)のミサンガ売りの兄さん達がいます。ミサンガを勝手に腕に巻かれて料金を請求されるとかも言われていたりしますので、欲しくなければ断りましょう・・・。
ディズニーランドみたいで、いまいち感動は薄かった。
古いものでも、随時、改修などはしているので、あまり古くからあるという風合いが薄れてしまっているのもあるかなあ。
そんなに、是が非でも見なくては!という感じではありません。個人的には。
コロッセオ(円形闘技場)
コロッセオです。
言ってみるならば、古代の武道館・・・かな??(夢がない??)
でも、本当に古代の武道館というと、規模感もピッタリかもしれません。円形なこととか、大きさとか、似ている気がします。
コロッセオの由来と感想
△コロッセオの内側から、外の通りを眺めた図。
イタリアの建物はカラフルにペイントされています。
ウェスパシアヌス帝が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68年-70年)の甚大な被害から完全に復興しておらず、ネロ帝が行った放漫財政を正し財政の均衡を目指しながら首都の再建を進めている時期であった。緊縮政策を取りながら、市民を懐柔するための娯楽施設の目玉として円形闘技場の建設が検討された。
使用開始に当たっては、100日間に渡り奉献式のイベントが行われ[、模擬海戦が行われると共に、剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され、数百人の剣闘士が命を落としている。
ローマ帝国のキリスト教化に伴い血生臭い剣闘士競技は禁止されたと言われているが、443年に地震で破損したコロッセオの修復を行ったことを記念する碑文が残されており、地中海西部でのローマ帝国の支配が崩壊した6世紀でも修復の記録が残っていることから、古代末期までは競技場として使用されていたと考えられている。
コロッセウムに使用されている建材は、中世を通じて他の建築物に流用され続けた。つまり一種の採石場とされていたのである。その大理石はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも使用されている。それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていたため、一種の聖地となっていたからである。しかし、キリスト教徒が迫害されたという明確な証拠はない。ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになった。現在外周は半分程度が残っている。古代の完全な状態に再現しようとする動きはなく、このままの形で保存されていくと考えられている。
ウィキペディアから引用。
歴史を改めてみると、なかなか面白い!
「市民を懐柔するための娯楽施設」ってことで、まあやっぱり武道館ですよ!
そんなに高尚な建物ではないことが分かります。
しかし、こけら落としで猛獣5000匹、剣闘士数百人が命を落としたということで、まったく古代人は狂っていたとしかいいようがない・・・。
もちろん現代でも戦争はありますが、純粋なる娯楽として、殺戮というのはなかなかないですね。
コロッセウムが崩れているのは、年月や地震のせいかと思ったが、採石場として使われていたから・・・っていう理由も面白いw
遺跡から石を持って行ってしまったのかい・・汗
「風の谷のナウシカ」で、旧文明の遺跡からセラミックやら、エンジンを取り出して使っているみたいだなあ。
円形構造をしていたので、ローマは地震も多いですが、地震によって崩れていたわけではないそうです。
円形の底は幾つにも仕切られていて、闘技場だった時には、そこに猛獣が飼われていたそうです。そして半円形の舞台の上で血みどろの死闘が繰り広げられていたとか。
△獣の仕切りと、右側の蓋みたいなのが、闘技舞台。
今はもちろん、遺跡というか廃墟ですから、そんな熱狂を思わせるものはなく、とてもガラーンとしています。
そしてやっぱりシーズンオフでも観光客は多い・・
韓国か日本か、アジア系のおばちゃん達も、きゃあきゃあと写真を撮っている。
まあ、さすがに冬なので行列までは出来ていませんでした。
並ばなくてもすみましたが。
・・・まあ、大きいですけどねえ。
やっぱり娯楽施設ですよ!
・・・そんなわけで、それほど感動しませんでした・・・。
想像力が乏しいのかな、自分・・・。
ここで、古代の剣闘士が戦い、観客が熱狂し、皇帝が満足気にそれを見ている姿をリアルに思い浮かべられれば楽しいのかもしれません・・・。
△「風の谷のナウシカ」の、腐海が朽ち果てた後の柱・・・みたいな
とても有機的な造形の柱も転がっていました。
美術館とかによくあるような音声解説機も用意されていたので、興味があったら、聞いてみてもいいかも。
フォロロマーノ
フォロ・ロマーノの由来と感想
遺跡公園といった感じ。
神殿や柱が、ゴロゴロと転がっています。
フォロ・ロマーノがいつごろからローマ市の中心となったのかは、はっきりしない。伝承では、ロムルスとレムス兄弟に率いられたラテン人がローマを建設したのは紀元前753年頃とされる。フォロ・ロマーノの整備は紀元前6世紀頃に始まるが、それ以前は周囲の丘から流れ込む小川が合流し、増水したテヴェレ川の流水で水没することもある沼沢地で、一部は墓地として利用されていた
このような土地がローマの中心となったのは、それぞれの丘にあった村落が徐々に連合を形成するにつれ、会合や会談の場として中立な原野が選ばれたことによるらしい。まさにその中心に位置する原野がフォロ・ロマーノのある場所であった。
丘の上に村落があって、その中間地点の原野が、会合の場になったとのこと。
こうして古代ローマの中心地だったそうな。
元老院議事堂などもあったとのことで、日本でいうと霞が関エリアみたいなものだったのだろうか・・・?(謎)
廃墟公園という感じです。
ともかく、朽ちかけた神殿の柱が、ランダムにそこここに転がっています。
芝生の上に、苔生しています。
朽ち果てた珊瑚みたい。
なぜか大理石(?)は、桃色がかっているものも多いので、余計にピンク色の珊瑚が崩れ落ちたように見えます。
崩れた柱が、適当な台座に放置されている感じ・・・。
フォロ・ロマーノの向こうには、現代の建物や、中世の建物が聳えているのも見れます。
神殿と水場だったでしょうか。
貝の文様と、女神像が彫られていました・・・。
水道の周りで、古代人は何を語らいあっていたのでしょうか・・・。
古代ローマから、現代まで色んな時代の壮麗な建築が、様式とかごちゃまぜで密集しているのが、なんとも永遠の都ローマです・・・。
都会としての時間の地層が厚いんだな・・・。
崩れたはるか昔の煉瓦や凱旋門の一部が、曇り空の下、なんとも情緒がありました・・。
このフォロ・ロマーノは、特に歴史好きだと見応えがあるでしょうね・・。
ローマは、現代の時間が、遺跡に圧倒されている街という気もしました。
もしかして、あまりに情報量が多い街だったのかもしれない。
古代ローマから二千年くらいの間に栄えた様々な文明の遺跡が同居していて、時間の地層が凄いことになっています。
だから、きっと、ただフラフラ歩くだけでも情報量は相当多かったはず。
訪れているその時には、処理しきれないのかもしれない。
後から、記憶の中でローマという写真の細部に分けいっていくように、じわじわと露光されていく、ミステリアスな都市の肖像。
何かそういう印象を今は持っています。
パンテオン
神々が沢山いる場所ということでパンテオン・・・日本では「伏魔殿」という言い方をしますが、これは英語では確かパンテオンといったような言わないような(??)
パンテオンの前には、オベリスクが立ってます。
紀元前1200年にエジプトで作られたものを、古代ローマ帝国が神殿に使うために運び、その後1373年に、パンテオンの近くから発掘されたものだとか。
うーん、移動距離が凄そう・・。
やはり大陸って、文明間の移動感覚が壮大ですね!
パンテオンの由来と感想
最初のパンテオンは紀元前25年、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近マルクス・ウィプサニウス・アグリッパによって建造された。
2代目のパンテオンは118年から128年に掛けて、ローマ皇帝ハドリアヌスによって再建された。
建物は、深さ4.5mのローマン・コンクリート基礎の上部に直径43.2m の円堂と半球形のドームが載った構造で、壁面の厚さは6mに達するが、高さによって材質を使い分けており、ドーム上部は凝灰岩と軽石を素材として用い、その厚さは1.5mに減じる。
床からドーム頂部までの高さは直径と同じ43.2mで、頂上部分にはオクルス(oculus, ラテン語で「目」の意)と呼ばれる採光のための開口部 があり、ドームの質量を感じさせない。
ローマ神が信じられなくなったあとも、この象徴的な空間性によって、608年頃にはキリスト教の聖堂となり、破壊を免れた。建物自体が非常に改築されにくいものだったので、この荘厳な空間は、今日でも見ることが出来る。
ラファエロの墓もここにある。
なお、毎年8月6日と9日には、ここで、原爆忌 Mai più Hiroshima (Never more Hiroshima)が行われている。
ウィキペディア情報によると、上のような感じ、直径43メートル、高さも43メートルなので結構大きいです。
原爆忌があるとは・・意外でしたね。
ヨーロッパ、とくにイタリアは文明の十字路になっているので、同じ建物が、ローマの神々をあがめる施設から、キリスト教の施設になっていたことは多いです。
シチリアだと、この過程でイスラム教のモスクになって、またキリスト教の教会に戻されたりとか・・。
・・・実はわたくし、パンテオン自体には、やはり、それ程感動はしませんでした(;^_^A
・・・なんでだろう。やっぱり、しょせんは人が作ったものだし・・と思ってしまうのかなあ。あと、芸術作品とは違って、すごく優雅な彫刻がされているわけではないですからね。
重厚ですがシンプルな作りです。
下の方に映っている人々と比較すると、巨大さが分かるでしょうか。
でも、ドームになっているせいなのか、中に入ると、それほど大きな空間とは感じません。
天井の明り取りからは、太陽光線がこぼれて、綺麗です。
あと、柱はともかく巨大でした。
個人的には、パンテオンの前にあるマルス広場の噴水が、なかなか味がありました。
古びた怪物が口からデロデロと水を吐いています。
あ~、こういうの凄くイタリアっぽい!
マルス広場では、チェロ弾きの人が美しいバッハか何かの曲を奏でていました。
個人的に一番パンテオンで感動したのは、建物の中で、護衛の人が着ている衣装でした。
風の谷のナウシカのユパ様みたいな、マントというかカソックコートというのか、を着ていて、髭を生やしたイタリア人のおっさん達は、絵になってましたね・・・。
映画に出てきそうな感じ。
怪しいやつが来たら、スラリと剣でも抜いて戦ってくれそうでした。(萌え!)
パンテオンに書いてある文字の意味は?
「M. AGRIPPA L. F. COS TERTIUM FECIT」という文字が彫りつけられているのですが、これは「アグリッパがこれを建設した」という意味です。
・・・もっと格言のようなものが彫られているのかと思ってましたが、違いました。
カンポデフィオーリ市場
朝7時頃から開かれる市場です。
冬に訪れたせいもあってなのか、訪れた時はけっこう、こじんまりしていました。
「カンポ・デ・フィオーリ」は「お花畑」という意味です。
色とりどりの野菜や、オリーブオイルなどの調味料、それにお花などが売られていました。
色々な形の南瓜、右側にはマルメロがあります・・。左には色とりどりのトウモロコシも。
フルーツがたっぷり!ホテルで食べる朝食に、何か買っていってもいいかもしれませんね。
やっぱり、イタリアといえば地中海のレモンかしら。
・・お値段は、特に高くもないですが、安くもなかったですね。やっぱりローマは観光地価格なのかもしれません・・・。
小さな市場なので、どこかの観光スポットに行くついでに、ちょっと立ち寄るくらいの感じがいいかなあと思います。15分もあれば、ざっと見れちゃいます。
サンタアンジェラ城(聖天使城)
もとは霊廟だったという、武骨な作りのお城です。お城といっても要塞みたいな感じなので武骨に堅牢に作られています。
サンタアンジェラ城へと向かう橋の上には、両脇に天使像が沢山立っているー。
サンタアンジェラ城の由来と感想
ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。
わずかに離れた場所にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれている。
かつてはハドリアヌス廟(ラテン語: Mausoleum Hadriani)と呼ばれていた。
135年、ローマ帝国の皇帝でいわゆる「五賢帝」のひとりハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始し、アントニヌス・ピウス治世の139年に完成した。
しばらくすると軍事施設として使用されはじめ、403年にはアウレリアヌスの城壁の一部に組み入れられた。 14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、また、同時に牢獄や避難所としても使用された。
16世紀前半の教皇クレメンス7世は、ローマが神聖ローマ皇帝軍により恐ろしい略奪(ローマ略奪)を受けている間、皇帝カール5世率いるドイツ人傭兵(Lanzichenecchi)の包囲に抵抗するため、この機能を使用した。
17世紀前半には教皇ウルバヌス8世がサンタンジェロ城の強化に努め、1667年に教皇となったクレメンス9世は、バロック芸術の大家で旧友のジャン・ロレンツォ・ベルニーニにサンタンジェロ橋の装飾を依頼しており、橋はベルニーニ自作の2体ふくむ10体の天使像の彫刻で飾られている。
サンタンジェロ城の名称は、590年にローマでペストが大流行した際、時の教皇グレゴリウス1世が城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て、ペスト流行の終焉を意味するとしたことに由来する。その故事を記念して、16世紀にラファエッロ・ダ・モンテルーポ(Raffaello da Montelupo)による大理石製の天使の像を城の頂上に設置した。
1753年からはPierre van Verschaffeltによる青銅製の像が設置してある。
以上、ウィキペディア情報でした。
それにしても、お墓(霊廟)が、そのまま軍事施設に転用されちゃうところが、なかなか面白いですね。
バチカンと秘密の通路で結ばれているというのも面白い。
大御所ベルニーニの彫刻が、橋にいる天使像のうち2体に混じっているようです!
ここはよく注意して見ていなかった・・・。
とりあえず、天使像はかっこよかったです。
写真を撮ったら、背景の雲とあいまって、本物の天使みたいに見えました!
迫力!
この雲、疾走感ありますよね!
この橋の上には、乞食の人もいました。
頬かむりして、ずっとひれ伏し続けていて、けして頭を上げないのです。頭の先に、ドロップ缶みたいな空き缶を置いていて、ここにお金を入れるようになってます。
日本では、あまり乞食ってみないですよね、ホームレスはいても。
なので、ちょっとカルチャーショックでした。
随分ドラマチックな姿勢で恵みを乞うのだなあ、と・・・。
お城自体は、とても武骨です。
日本の天守閣が武骨なように、基本的には、無駄な装飾のない、要塞として作られている感じです。
中は博物館になっていて武器や絵画などが展示されています。
見どころというと・・・。
やっぱり屋上からの眺めでしょうか。
螺旋階段をのぼると、バチカン市国、橋、聖ピエトロ寺院、ローマ市街を眺めることができます。
古代からの古びた大都市が一望できます。
そうそう、ローマの街にはカモメが沢山います。
そして、いかにも撮ってほしそうに、カメラを向けるとポーズを付ける(??)のです。
テベレ川と暮れなずむ町をバックに、気取るカモメ君であった・・・。
サンタアンジェラ城は、武骨な外見に関わらず、上の方の階は、王のための部屋も作られていて、この部屋だけは、天井画が壮麗でした。
サンピエトロ大聖堂
ある意味では、ローマ観光のハイライトとも言えるのが、サン・ピエトロ大聖堂。バチカン市国という、ローマ方法が住む独自の国になっています。
中はスイス人の護衛達が、伝統的な衣装を着て守っています。
眺めはとてもいいのと、内部に美しい彫刻がたくさんあります。
サンピエトロ寺院の由来と感想
サン・ピエトロ大聖堂は世界最大級の教会堂建築である。
創建は4世紀。
現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものである。高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737m2。
教会堂の前部には長径200m、短径165mの広場(サン・ピエトロ広場)が存在する。北側にはバチカン宮殿、南に教皇謁見所と宝物館が隣接する。ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わった。その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。
本来は、コンスタンティヌス1世により、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されたものである。
以上、ウィキペディアより引用です。
二代目の聖堂ということで、意外と完成年は新しいですね。1626年でした。
といっても400年近く前ですが・・・。
身廊に入って右手前に通称「ピエタ礼拝堂」がある。正式にはクロチフィッソ(磔刑像)礼拝堂というが、ミケランジェロの『ピエタ像』が安置されたことからこう呼ばれる
聖堂の中では、ミケランジェロのピエタが見れます。
その他にも、美しい、今にも動き出しそうな彫刻の傑作が、たくさんありますので、建築と合わせて、見て回れます。
石で出来ているとは思えないほど、本当にどれも、やわらかな、なまめかしい気配を持っていました。
美術好きは、行って損はないと思います。
内部はこんな感じで、ともかく壮麗です。この赤茶色と灰色、黒で作られた大理石?のパネル一つ一つも大きいし、天井も高いです。
なんかもう、あまりよく覚えてないんですが汗、こういうドームになった天井部分もいくつもあります。天井は絵や装飾で埋め尽くされている・・・・。
天使です。
本当に、石なのに、なんでこんなに有機的でやわらかな質感を出せるのか・・・。
芸術家は偉大だなあ・・・。
サンピエトロ寺院は並ぶ?
これ、聖ピエトロ寺院前の広場です。
シーズンオフの午前中でしたが、並んでました。。。。
円形の広場なので、円周にそって列を作ります。
私が行った時は、半周くらいだったので、それほどじゃなかったですが、やはり朝一番に行くのがいいと思います。
25分くらい待ったでしょうか・・・。
お菓子屋さんで買ったハンドメイドクッキーを齧りながら待ちました。
ちなみに、イタリアのお菓子は世界一美味しいと思います!!
(いや、そんなに旅しているわけではありませんが、それでも美味しいと断言できてしまうくらい、美味しいという意味)
広場は太い円柱が取り巻いていて、その上には高さ3.2mの聖人像144体が、見下ろしています。
色んなところから石像に見つめられるのも、イタリア旅の醍醐味かもしれません・・・(?)
サンピエトロ寺院からの眺め
キューポラに上るのが、やっぱり聖ピエトロ寺院観光のハイライトかと思います!
螺旋階段を、けっこうな段数、息を切らしてのぼりましたあ・・・。
すると、こんな景色が待っていたりする。
先ほど列を作って並んでいた、広場とローマの街が一望できます。
ここにもカモメが!
風が気持ちいいです。ところどころに観光客の記念落書きがある・・(;^_^A
上から見ると、このキューポラの外装・・というか、ドームの外側に塗ってある色が絶妙でした。
白と灰色とブルーが混ざったような色。ペンキというよりも、漆喰(??)みたいな質感です。この塗料の材質は何なのだろうか・・?
聖人達を後ろから見ることもできます。
展望台の近くには、簡単なコーヒーショップと、お土産物コーナーがありました。
お土産コーナーでは、やはり、クリスチャンの聖地だけあって、様々なクロスネックレスや、聖人像、
さらに教皇グッズもありました。
教皇の有り難いお言葉を印刷したポストカードとか色々・・・。
そして見どころといえば、スイスの護衛達。
ちょっとピエロっぽい衣装ですが(??)、こんな風に何百年も前と変わらないような伝統衣装で、大聖堂を守っているのでした。
1505年、ヨーロッパでは最強と言われていたスイスの傭兵部隊を教皇ユリウス二世が雇ったのが始まりだとか。
彼ら、一見、形式的に見えてしまいますが、ちゃんと訓練を受けている、れっきとした傭兵のようです。何時間かに一回、衛兵交代の儀式があります。(挨拶するくらいだけど)
・・・こんな感じで、美術品から建築、展望台まで、色々と見応えはある場所でした。
ローマの治安はどう?
ローマというと、あまり治安は良くない印象がありますよね。ただ、引ったくりやスリには気をつけたり、夜に人通りの少ない道を歩かないなど、基本的な安全対策を行っていれば、それほど危険ではない印象を受けました。
昼間の地下鉄でも、夜に川沿いを歩いても、特に危険は感じず・・・。
確かに、テルミネ駅前にホームレスが寝転がっていたりとか、移民系の人が観光客相手にミサンガ売ったりなどはしていて、なんとなく混沌としているのですが。
あと、車の運転は荒っぽいので有名みたいです。
ま、日本だったら新宿の歌舞伎町に夜いるくらいな感じで気を付けていれば大丈夫そうではありました。(個人的印象です)
ローマで行きたい、安くて美味しいレストラン
さて、観光名所を回って、さんざん歩き回った日は、やっぱりお腹が空きますね!何か食べたい!
そんな時はイタリアという国の偉大さをしみじみ味わえる瞬間です。
本当に、イタリアは料理が美味しい!
小さなレストランでも美味しい!あまり当たり外れがありません。
ヨーロッパ諸国は、我々日本人にとっては、大味だったり、お菓子の場合は甘すぎてしまったりして、口に合わないことも多いのですが、イタリア料理は馴染みます。
甘過ぎず、日本人の好きな「旨味」もたっぷり!
なので、そのへんのお店にフラっと入っても充分に美味しいと思います。
ですが、一軒、安くて美味しいお店を発見したのでメモ。
Freni e Frizioni
テベレ川沿いにあって、バチカン市国を見物した後に、そのまま川沿いを歩いてたどりつけるカジュアルなレストラン。
ここの凄いところは、なんとワンドリンク頼むだけで、ビュッフェが取り放題!!なことです!!
ほとんどが野菜料理ですが、お豆もあるし、バラエティ豊富で良い!
↑ オレンジ、シナモンと林檎、トマトのビーンズサラダ、オリーブ果実、グリーンサラダ・・・とか取り放題!
地元イタリアの若者たちが陽気にくつろいでて、けっこうガヤガヤしています。
ホームページはこちら。
http://www.freniefrizioni.com/
メニュー表も、なかなか面白いんですよねえ。
映画名のカクテルがあったり、世界各地の名前が付けられていたり。
イタリアに行ったら絶対、お菓子を食べよう!
料理が全般的に美味しいのですが、何よりもイタリアで食べたスイーツの味は忘れられません。
なぜあんなに美味しいのか・・・。コクがあるのか・・・。神秘としか言いようがありません・・。
その辺のクッキー屋さん、パン屋さんで売ってる、素朴なホームメイドのペイストリーが、なんとも絶妙に美味しいんです。
甘さは控えめで、バターや卵のコクが、しっとりとした上品な味の小麦とよくマッチしているんです。
本当に、お菓子を食べるためだけにイタリアを再訪問したくなるような美味しさなんですよ・・・。やはり原料からして違うんでしょうね・・。
ローマ旅行記まとめ。
書いてきましたように、ローマでは正直、観光名所自体に凄く感動したりはしませんでした。
でも何よりも後から思い出して印象深かったのは、とにかくあの古い古い都を歩き回っている時の、独特の身体感覚です。特に名所ではないところに、古い聖母子像があったり、黒い石畳の上をバイクがかっ飛ばしているすぐ横に、古代の公衆浴場の遺跡が崩れ落ちてあったり、背の高くて優雅なイタリア風建築の隙間を迷子みたいに(実際迷ったりもしましたが汗)歩いている、あの不思議な迷宮にいる感覚です。
あれだけ都の地層が幾重にもなっているところは、なかなか世界的に見ても珍しいのでしょうね。
それから、イタリアのバービー人形は、あまりにイタリア人女性風にデフォルメされていて面白かったです。んー、ちょっと上の写真みたいなイメージでしたねえ、イタリア人女性。
そんな良く分からない締め方ですが、とりあえずローマ旅行記は以上でーす。
とにかく、(クッキーをぱくつきながら)歩き回って体験したい都市ですよ、ローマ。
イタリアはシチリア島の壮絶に美しかったリゾート地、タオルミーナについても以下の記事に書いております☆